【自分に正直に、苦悩の選手が選んだワクワクするセカンドキャリアとは 元社会人野球 選手 久保淳平】

■野球や指導者との出会い

===大学時代は全日本選手権にも出場し、社会人野球チームでもプレー経験のある 久保さん。野球を始めるきっかけを教えてください。

実は、最初は野球ではなく、ソフトボールをしていました。兄がソフトボールチームに入っ ていてよく母と練習を見に行っていたり、練習脇でキャッチボールをしてたりしたんです。 そしたら、そこの監督が「久保の弟も入れ、お前ならエースになれるぞ!」当時は兄の影響 と「エース」という響きがカッコよくて競技を始めた感じですね。でも、ソフトボールをし ていたのは小学校までで、当時通っていた中学校にはソフトボール部がなかったんです。周 りのチームメイトたちも中学に上がれば野球をする様な状況だったので、僕としては自然 な流れで野球人生をスタートさせました。

==大学での実績や、社会人野球でもプレーしていた久保さんですので、中学の頃から注目され ていたんですか?

いえいえい、まったくです(笑)。当時からピッチャーだったのですが、体格もいいわけでは ないですし、チームとしても目立つ様な位置まで勝ち続ける事が出来ていなかったので、漠 然と「野球選手になれたらなぁ」と思いつつも、実績が伴っていない。そんな状況でした。 なので、高校進学もスカウトがあったわけではなく、将来困らない為に・・・って考えて工 業工高校に進学したんです。

==では、その後の目覚しい活躍に至る転機はどの様なものだったんですか?

転機は高校時代ですね。いい指導者に巡り合えたというのが大きな転機だったと思います。身体 づくりを含めたピッチャーとしての基礎を徹底的に叩き込まれて、400 メートルの中距離を 1 日 100 本近く走り込み、食事なんか他のメンバーの 2,3 倍の量を食べていたと思います(笑)。そ のおかげで体格も良くなり、球速が 20 kmは上がりましたね。

==20 kmは凄いですね。高校時代もエースとしてご活躍されたのですか?

高校時代は九州大会への出場はしましたが、甲子園には行けず、野球に対する「不完全燃焼感」 が凄くあったんです。黄金世代と呼ばれ甲子園出場も期待されていたんですが、応える事が出来 ずで・・・。「これで野球も辞めて就職しよう」と思っていたんですが、当時の北九州共立大学 の監督が特待生として迎え入れてくれ、すぐに進学を決めましたね。その当時は純粋に野球を続 けられる喜びみたいなものが強かったです。

■周りの方の期待に応えるため、野球を通じて経験した栄光と苦難

==大学での活躍の 1 つに 1 年時のノーヒットノーランがあるかと思うのですが、この時はどん な感覚でしたか?

はい、1 年の公式戦でノーヒットノーランを達成していますね。あの時はストレートも変化球も 全部自分の思うように投げられ、面白いくらいにバットを振ってくれるみたいな。所謂ゾーンみたいなものに入っていたと思います。でも、何より自分を盛り立ててくれたり、バックを守って くれたチームメイトのおかげかなとも思いますね。中学から野球を始めて、その頃は線も細かっ たんですが、高校時代に身体を作って、投球スタイルを見つけて、この時に1つ形になった感じ はしましたね。

==そうだったんですね。でも、1 年時からそこまでの活躍だったら周りからの注目度も高かっ たのではないですか?

実際、その日を境に複数の球団スカウトの方に見に来ていただいたり、地元で声をかけられたり とちょっとした有名人の様な状況でした(笑)。同時に期待されていると思う反面、応えられるよ うな結果を出さないとと、少し焦っていた時期でもありますね。その空回りの様なものが影響し てなのか、実は大学 2 年の時に怪我をしてそこから約 2 年間はまともに投げられなかったんで す。当然メンバーにも入っていなかったですし、ちゃんと試合での投球ができる様になったのは 4 年の時ですね。それでもなかなか本調子という訳にはいかなかったと思います。

==そうでしたか。大学卒業後の進路はどの様に決められたんですか?

三菱重工横浜の監督に声をかけて頂いて、入団を決めました。正直、ケガも経験して野球は 大学までかと思っていたので自分が一番驚きましたし、即答で入団を決意しました。まだ野 球を続けられる事と、1 年以来ケガで活躍もできていなかった自分に賭けてくれたことが嬉 しかったですし、つくづく周りの方に恵まれて支えられていると思った出来事ですね。

==そうだったんですね。社会人野球の選手としての生活と、実績等お聞かせください。

シーズン中(4 月~10 月)は会社員としての仕事は殆どなく、練習や試合、大会に没頭しオフ シーズンは日中仕事をし、定時以降に自主練に励むといった日々を送っていました。社会人 リーグといってもオフィスワークをするような時間は殆どなく、今まで同様野球中心の生 活ですね。仕事の部分は関連会社の印刷部門で製本作業や製図の印刷なんかをしてました。

社会人野球としての選手生活の中では結果は殆ど残せていないんです。入団後は 26 歳まで を区切りにして NPB へのチャレンジを目指していましたし、仕事をしながらも野球に真摯 に向き合えていたかなと思います。

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