プロサッカー選手としての光も影も知る森﨑浩司が経験したセカンドキャリアとは【前編】
■アテネ五輪で感じた特別感、アスリートとして経験した光と影。

それからはプロサッカー選手としてのキャリアを順調に歩んでいけてたのですか?
実は、怪我もあり、プロ1年目・2年目はあまり出場機会に恵まれませんでした。2002年の3年目でようやく試合にも出られる様になり、チームはJ2降格という結果でしたが、個人的にはシーズン通算22試合に出場し、6得点をあげられた事から、自分自身の成長と手応えを感じた1年でした。翌年にはアテネ五輪の日本代表にも選んで頂き、2004年にオリンピックに出場する事が出来ました。
オリンピックの出場は素晴らしい実績だと思うのですが、本来のポジションとは違う左WBでの出場だったかと思います。抵抗感などはなかったのですか?
それは全くなかったですね。本来のポジションと違いはあっても選んでもらえた事が純粋に嬉しかったですし、オリンピックは年齢制限があるので、それを考えると一生に一度の事だと思いました。日本代表としてピッチで戦うことができる嬉しさとワクワクが勝っていましたね。
日本代表はまたクラブとは違った分雰囲気なんですか?
そうですね、独特の緊張感がある場所だと思います。国歌斉唱をして試合に臨むなんてこともそうそうないですから、そういう一つ一つの事から国の代表なんだっていうのを感じて
いましたね。結果としてはグループリーグを突破する事が出来なかったんですが、3試合全てに出場させて頂く事ができました。オリンピックででの戦いはあっという間に終わってしまったって感覚でしたが、この事は自分にとってとても良い経験だったと思いますし、代表での経験をきっかけに世間からも注目されることが増えました。サッカー選手としての自覚が芽生え、意識が変わったタイミングでもありましたね。
森﨑さんにとって、特別な日本代表期間だったと思いますが、その後クラブで実績は如何でしたか?
実は、その後からは、僕のサッカー人生で一番大変な時期を過ごします。アテネ五輪の翌年の2005年にオーバートレーニング症候群になってしまい、チームを離脱しました。その後は、何度もチームへの参加と離脱を繰り返す事になります。この時期からプロを引退するまでは、精神的な病と付き合いながらの選手生活になります。今思うとなんですが、元々完璧主義で比較的ミスも少ない選手だったので、そういう側面もあって精神的なバランスを崩してしまったのではないかと思っています。当時はとても辛かった記憶がありますが、病気の事で自分の考え方も変わり、前よりもポジティブに考えられるようになって、今の自分に活きている事も沢山あります。
■どん底からの復活、僕が折れずにいられた理由。
先程あったのですが、長くチームを離脱するような状況だったのでしょうか?
僕の場合は、チームへの参加と離脱を繰り返す様な感じでした。精神的な問題が大きかったので、やっぱり再発してしまったりするんですよね。なので、その度に色々な方に支えられてチームへの復帰を果たしていた状況でした。
そうだったんですね、非常にセンシティブな問題だと思うのですが、チームや監督には相談等出来るものなのですか?
当時の所属クラブでは、そういった環境が整っていて、僕は監督に自分の体調や思っている事を相談する事が出来ました。ミシャ監督(ミハイル・ペドロヴィッチ氏)や森保監督(森保一氏)は僕の思いや体調面の話をすごく聞いてくれて、当時の僕のペースでチームに加わる事を許してくれました。
ありがとうございます、大変な時期を経て所属クラブの2連覇に貢献するまでにはどの様に復活したのですか?
家族やチーム、監督やコーチ、チームメイトやサポーターの皆さんに支えてもらった事が
一番大きいのですが、「サッカーが好き」だという思いとサッカー選手としてピッチでプレーをすることを諦めなかった事も大きいと思っています。日々の練習でもそうだと思うのですが、チームが低迷している時も、自分に元気がない時も諦めずにやり続ける事で結果に繋がるものだと思っています。この考えは非常に重要だと思っていて、サッカー選手を引退した後でも、自分のすごく大事な考え方の1つになっていますね。
激動の現役時代を過ごした森﨑さん。
そんな森﨑さんの現在の仕事に対する向き合い方とは?そんな森﨑さんだからこそ見ているサッカー界の未来とは?
次回の【後編】では
・Jリーガー引退後のキャリア
・現役時代に感じた、セカンドキャリアを考える事の重要性
・サッカーをより沢山の方に身近なものにする未来など、の内容をお届けします。
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